合戦!倶利伽羅峠!

プライベート日記

今は、ハイキングコースにもなっている倶利伽羅峠ですが、

その昔、源氏と平氏が大軍で戦った源平合戦の地でもあります。

平安時代末期、後白河天皇の第3皇子「以仁王」から出された、平家追討の令旨に応じて、信濃国(現在の長野県)で挙兵した、源義仲は北陸道を通り、京を目指しました。

対する平氏は、平維盛(平清盛の孫)を総大将とする10万の大軍を北陸道へ向かわせ、迎え撃ちます。

この対応には、酷い飢饉が関係していたようです。

天候不順による凶作、疾病等が重なり、京への食糧の供給が行き届かず、主要な食糧調達地である北陸地方は、何としても死守しなければならない補給路だったのです。

初戦は平維盛が有利に戦いを進め、源義仲は、越中国(現在の富山県)まで一旦退却します。

しかし、平家の先遣隊が、般若野(現在の富山県砺波市)で野営しているところを、源義仲軍の先遣隊が奇襲、勝利を収めます。

勝ちに乗じて源義仲軍は5万の兵を率いて進軍。

対する平維盛軍は、能登に3万の兵を配置し、7万の兵力で倶利伽羅峠に陣を敷きました。

源義仲軍は平維盛軍を牽制しながら、昼間は戦いを仕掛けず、隙を見て別働隊を平維盛軍の背後に回らせます。

平氏軍が寝静まった夜に、角に松明をくくりつけた牛の大軍が野営していた平氏軍に雪崩込み(火牛の計)、平氏軍の混乱に乗じて、源氏軍が攻め込み、7万の平氏軍は逃げ惑いました。

しかし、その先は、倶利伽羅峠の断崖が待ち受け、平氏軍は、次々に崖下へと転落、死者の山が積み重なったと伝わっています。

このような歴史的背景から、この崖を「地獄谷」という名称がつけられました。

倶利伽羅峠の戦いで敗れた平家軍は、兵のほとんどを失い、大勝利を収めた源氏軍は、勢いをつけ、念願の上洛を果たすことになります。

実際に歩いてみて、険しい山道ではありましたが、冒頭にも触れたように、現在はハイキングコースとして整備されていて、大きな合戦があったとは思えない場所でした。

北陸地方は、京を始め、畿内の重要な食糧基地であり、北国街道(北陸道)は京と北国街道を結ぶ、重要な道であったからこそ、このような戦いの歴史もあったのでしょう。

これからの北国街道の旅も、多くの歴史に触れられる楽しい旅になりそうです。

参考文献 

倶利伽羅峠の戦い古戦場
「倶利伽羅峠の戦い」(くりからとうげのたたかい)は、平安時代後期の1183年(寿永2年)5月11日、現在の富山県と石川県の境にある砺波山・倶利伽羅峠で起きた、「木曽義仲」(きそよしなか:源義仲とも)軍と「平維盛」(たいらのこれもり)軍が戦った、「源平合戦」の戦のひとつです。

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